本日の記事も北方領土(北方四島)に関する話題です。

今、報道が増えている北方領土に関すること、特に第2次世界大戦後、ロシア(旧ソ連)に占領されてからのことは、社会科や歴史の授業ではあまり詳しく教えてくれなかったような気がします。

11月15日投稿の記事【訪問記】北海道庁旧本庁舎で北方領土について学ぶ【2018.11.14】にて、札幌にある北海道庁旧本庁舎(赤レンガ)を訪れ、その中に開設されている北方領土館を見学させて頂いたことを投稿しましたが、北海道の小中学校の授業で使用されている北方領土学習資料も展示されていて、無料で配布されていたので頂くことにしました。

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1855年の日露通好条約をはじめとした国際的な決まりや、北方四島の地名や生態系、1945年当時に住んでいた島民の人口、島民が居住していた時代の写真などが載っています。

国後・択捉の二島も1855年の日露通好条約以降、国境が択捉島と得撫島の中間になったことで日本領となりました。
1875年の樺太千島交換条約からは樺太がロシア領となる代わりに、得撫島から北の千島列島全て(カムチャッカ半島の南まで)が日本領と決まりました。
その後、1904年に日露戦争が起き、1905年のポーツマス条約で、樺太の南半分が日本の領土になりました。ここまでは中学生の頃だったと思いますが、授業で教わった記憶があります。

第2次世界大戦後、北方領土がロシア(旧ソ連)に占領され、1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は平和条約に調印し、樺太の南半分と千島列島を放棄したとありますが、歯舞群島と色丹島はそもそも千島列島から外れていますし、残る国後・択捉も、日本領から外れたり、ロシア領となる根拠や国際的な決まりは現在も過去も存在しません。

ただ、「千島列島」の範囲とは、何処から何処までなんだろう?と感じます。物事の解釈は難しいですね。